 |
 |
『医療現場』で見る歯科医をめぐる
直近の紛争の臨床例と処方箋
- 歯科医の3年余のインプラントに関する医療過誤裁判 - |
 |
“手技の過失の有無と上顎洞炎との因果関係の存否”
“インプラントの自由競争と医療情報の多義性の功罪” |
 |
| 1 紛争の概要 |
《歯科医が大学病院で診察、診療所で治療。大学に医療過誤の訴状の送達》
■ 歯科医は学校法人私立大学が開設する大学付属病院(以下「病院」という)の口腔外科・インプラントの非常勤講師として勤務(週1回)し、その傍ら歯科診療所(以下「診療所」という)を開業していた。患者は平成13年4月に病院の口腔外科で歯科医の受診をした。その結果、病院で既に経過不良となっている右上6番の抜歯、抜歯後は「入れ歯」か「インプラント」しかない、との説明を受けた。患者は歯科医から「インプラントは病院でなく診療所でする」との説明を受け、これに同意した。病院ではその後患者が歯科医の治療を受けていることを全く知らなかった。
ところが、患者は歯科医のインプラントの手技(術式)の過誤により術後「上顎洞炎」を発症、現在も咀嚼に不具合の障害を負った。そこで、病院と歯科医に対し医療過誤に基づき損害賠償を求めた。
《病院と歯科医に4100万円の損害賠償請求事件の提訴》
■ 大学は被告として平成16年10月に裁判所から歯科医とともに次の理由で損害賠償請求事件の訴状が送達された。
記
| (1) |
大学と歯科医は連帯して患者に対し4100万円を支払え |
| (2) |
歯科医は大学の非常勤講師で病院の口腔外科の診療をしている。患者は大学と診療契約を平成13年4月に締結した。 |
| (3) |
患者は歯科医の診療所で治療を受けた。しかし、当該治療は大学に所属する歯科医の治療を受けているものと理解していた。 |
| (4) |
(2)(3)から、大学と歯科医は診療契約の債務不履行または不法行為(使用者責任)に基づき4100万円を患者に支払う義務がある。 |
■ 大学の顧問弁護士(以下「弁護士」という)は「歯科医の診療所での医療過誤は病院外の治療現場での診療である。インプラント診療契約は歯科医と患者の間で診療所で締結されたものである。大学には医療過誤の法的責任はない」と判断した。しかし、大学も被告として提訴されている以上、裁判からは逃れられない。これは、医療過誤があった場合、歯科医が大学の非常勤講師のため大学の使用者(雇用主の)責任(不法行為)が問われているからである。従って、歯科医が「医療過誤のなかったことを裁判で立証すれば、歯科医も大学も裁判から解放」される。そこで、弁護士は大学の理事長と相談のうえ「気が進まなかった」が、大学と歯科医の代理人として裁判に臨んだ。
《インプラント体の洞粘膜貫通に関する双方の主張・立証》
■(患者の主張と立証) 歯科医は、インプラント体を洞粘膜に貫通させず、上顎骨を埋入すべき術式上の注意義務がある。にもかかわらず、歯科医はこの注意義務を怠り、上顎骨を経て洞粘膜を貫通させ、易感染状態を招き、上顎洞炎を発症させた。インプラント体が洞粘膜を貫通したことは下記の事実から推認できる。
記
| (1) |
平成14年7月の某大学付属病院放射線科医師報告書には「遠心側のインプラント体は上顎洞内に露出している」旨の記載がある。 |
| (2) |
平成14年8月の某病院耳鼻咽喉科の診療情報提供書には「治癒が遷延している一因としてインプラントの上顎洞内への露出の影響が懸念される」旨の記載がある。 |
| (3) |
平成18年7月の某大学病院歯科医療センターで右上6番インプラント体の抜去した時点で窩から洞粘膜を視認できた。これはインプラント体が上顎骨を貫通していた証左である。抜去時に洞粘膜の穿孔がなかったのは経過中の再生による。 |
| (4) |
平成14年10月の某病院でのCT画像上にインプラント体の先端が骨組織の一部分と思われる灰色がかった部分を突き抜け黒色の部分に位置している。同病院の担当医師はインプラント体が上顎洞に突き抜けている旨の説明をした。 |
|
 |
| 2 紛争の対処 |
《インプラント術式の内容及び術後症状の変遷と治療経過》
■患者は、平成13年4月に病院で歯科医の診察、同年5月に歯科医の診療所で右上6番を抜歯した。その後右上4番・右上5番相当部にインプラント体を右上抜歯窩にインプラントを埋入した。同年8月に右上4番から6番相当部にインプラントの上部構造物を装着した。平成14年5月に他院で患者は右上7番歯周炎急性発作とインプラントによる歯性上顎洞炎の疑いありとの指摘され、病院での再診察を指示された。平成14年5月に病院の耳鼻咽喉科で右上顎洞炎の診断により病院に入院した。患者は平成14年6月に某大学歯学部附属病院で、右頬部の圧痛、右鼻閉感の原因は右上顎洞炎との診断され、右上7番を抜歯した。患者は平成14年8月に某病院で診察を受け「上顎洞炎は治癒」との診断書の交付を受けた。
患者は平成18年7月に某大学病院歯科医療センターで右上6番のインプラントの抜去手術をした。この時点で右上6番のインプラント周囲骨はインプラント中部に強硬にインテグレーション(骨組織との直接の結合)を惹起しており、インプラント体を外した窩からは洞粘膜が視認できる状態にあった。しかし、抜去時に洞粘膜の穿孔はなかった。
(歯科医の主張と立証) 歯科医は下記の事実からインプラント体をして洞粘膜を貫通させていない。
記
| (1) |
インプラント体を埋入する箇所にインプラント窩を形成した。しかし、その際ゾンテ(消息子)にて上顎洞との交通がないことを確認した。 |
| (2) |
上顎洞との交通が発生していればレントゲン写真に出血状況が示唆される。しかし、その事実はない。 |
| (3) |
患者の指摘するCT画像ではインプラント体は上顎骨を貫通している。しかし、洞粘膜を突き抜け上顎洞内の穿孔は発生していない。 |
| (4) |
平成15年4月に某歯科医院で、患者はインプラントの上部構造物だけ除去し、インプラント体を抜去せず仮歯を作成し、平成15年7月に某歯科医院でインプラントの上部構造物を再作成した。ということは、この時点でいずれもインプラントの埋入に問題はなかった。 |
| (5) |
平成18年7月の前記歯科医療センターで右上6番インプラント抜去時に洞粘膜の穿孔はなかった。 |
| (6) |
平成13年5月のインプラント体埋入で上顎洞穿孔が生じ、易感染状態が発生したのであれば、術後インプラント体の動揺、脱落があるはずである。しかし、平成18年7月の抜去時までその事実はない。 |
《上顎洞炎の発症に関する双方の主張・立証》
■(患者の主張と立証) 歯科医の上顎洞に対するインプラント体の貫通またはインプラント体装着不十分な状況で上顎洞が口腔内と交通し、患者は易感染状況を呈し、上顎洞炎の発症・咀嚼不十分になった。もって、術式の不注意と発症との間には因果関係がある。その根拠は下記のとおりである。
記
| (1) |
平成14年6月の某大学病院の医師は患者の症状を上顎洞炎と診断した。その原因につき「右上7番の根尖病巣か、右上6番のインプラント体埋入による感染が考えられる」との診断をした。 |
| (2) |
(1)の病院のインプラント科の医師も「上顎洞炎はインプラントが発端」との見解を示した。 |
| (3) |
上顎洞炎の発症はインプラント術後で術前にはなかった。 |
■(歯科医の主張と立証) 以下の事実からインプラントで患者に易感染状態が生じ、これが原因で上顎洞炎が発症したものではない。術式と当該発症に因果関係はない。
記
| (1) |
インプラント体が上顎洞に穿孔を生じていれば、インプラント術後から長期に腫脹が生じ、また感染が生じて、インプラント体の動揺、脱落を起こしているはずである。しかし、その事実はない。 |
| (2) |
平成14年4月の某歯科医院では「当該診断時に患者に上顎洞炎は発症していない」と診断した。 |
| (3) |
平成14年6月の某医師の診断書には「上顎洞炎は右上7番の根尖病巣か、右上6番のインプラント体埋入による感染か」との記載がある。しかし、その後、右上7番抜歯後に症状が改善した治療経過から、同年8月には「上顎洞炎の原因は右上7番の根尖性歯周炎による可能性が大」との記載がある。 |
| (4) |
患者の上顎洞炎は平成14年8月頃には完治していたものの、インプラント体は平成18年7月に抜去されるまで埋入されたままの状態で、脱落はなかった。 |
《判決=4100万円の請求を棄却(敗訴)。歯科医の過失は肯定、上顎洞炎との因果関係は否定》
■平成19年7月に判決があった。その主文は「原告(患者)の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告(患者)の負担とする」という結論であった。弁護士は大学の使用者責任が否定された点で安堵したが、その主たる理由は次のとおりで、非常勤講師の医療管理や病院の人的・物的チーム医療体制の管理の徹底を理事長に具申せざるを得ないことを痛感した。
《インプラント体の洞粘膜貫通の過失は否定。上顎骨に貫通し洞粘膜に接触させた過失は肯定》
■患者は、主位的請求としてインプラント体を洞粘膜(シュナイダー膜)に貫通の過失を主張。しかし、その後「インプラント体を上顎骨に貫通させ、洞粘膜に接触させた過失」を予備的主張していた。
判決は前者については歯科医の主張・立証を認めた。特にCT画像の読影について「上顎洞は三次元的には球体のような形状であり、本件の場合、二次元的なCT画像の所見からインプラント体が上顎洞内に突出しているかを正確に判断することは困難である」しかも「仮にインプラント体が上顎洞内に突入しても、それによって洞粘膜を貫通しているとは直ちに認定できない。蓋し、洞粘膜は多層性の円柱上皮で0.13mmの厚さで弾性に富むものから、0.5mmの薄く脆弱なものまで、その性状が様々であり、単純にレントゲンやCT画像上鮮明に抽出されない。本件の場合、洞粘膜の貫通をCT画像上推認することはできない」と判断し、これを否定した。
しかし、後者については「平成18年7月の右上6番のインプラント体抜去時に抜去窩から洞粘膜を視認できた」点からインプラント体は上顎骨を貫通していたと判断し、これを肯定した。
■歯科医は、これに対し「ドリリングによるシュナイダー膜穿孔の危険性のリスクは上顎骨を貫通させた上で洞粘膜を貫通させない挙上施術も存在する。上顎骨を貫通させても洞粘膜を貫通していなければ問題はない」と反論した。しかし、判決は「歯科医は当初から当該術式を採用したのではなく『上顎骨を貫通しないでインプラント体の埋入する手技』を選択したものである。当該術式の存在からその過失が直ちに否定されるものではない」とし、歯科医の反論を否定した。
《歯科医の過失と上顎洞炎の因果関係の存否》
■患者は、前記過失が原因で上顎洞炎を発症したと主張・立証するが、次の理由から当該過失が上顎洞炎の発症原因であると判断することはできない。
まず、上顎洞炎の発症時期は病院で診断された平成14年5月頃と推認する。次に、上顎洞炎の発症原因は概ね歯科医の主張・立証を認め、加えて次のとおり判示した。
| ・ |
患者が右上5番・6番インプラント埋入部位の上顎洞炎の疑念を持ったのは某医院の右上7番の歯周病の急性発生を指摘された直後である。上顎大臼歯の歯根尖は上顎洞底に最も近接し、ときには上顎洞内に突出していることもある。そのため根尖性または辺縁性の歯周病が波及して上顎洞炎を発症しやすいことは公知の事実である。 |
| ・ |
平成14年6月に右上7番フルキャストクラウンを外した際、患者はカリエスが多く右上7番の抜歯手術を受けた。この際、同部位には上顎洞への穿孔があり、右上7番根尖相当部に直径5mmほどの嚢胞状のものあり、排膿が認められた。 |
| ・ |
上顎洞炎の症状経過を精査するに、平成14年9月には上顎洞炎は治癒の状態にあった。この時右上5番・6番のインプラントは除去しなかった。ということは、右上7番の治療後に上顎洞炎の症状は右上5番・6番ではなくむしろ右上7番の病巣にあったと推認するのが合理的である。 |
| ・ |
患者は右上7番の抜歯後も、右顔面部痛、後鼻痛、口唇周囲のしびれ等の主訴を主張する。しかし、複数の医療機関の診断では上顎洞炎の他覚症状はなく、患者の主訴は心因的要素によるものと推認できる。 |
|
 |
| 3 紛争の羅針盤 |
《患者はそもそも病院の患者であって診療所の患者ではなかった》
■患者はもともと病院の医療を信頼し病院で受診した。ところが、週1回の非常勤講師として病院に勤務していた歯科医が偶々(たまたま)その日に患者の診療を担当した。その結果、患者は診療所で右上6番の抜歯そして患者は自己責任で入れ歯ではなくインプラントを選択した。しかし、その治療を医療スタッフや医療設備の十分な「病院」ではなく歯科医が自分で経営する「診療所」でしたことに、既に本件紛争の要因が内在していた。
本件はこれが契機となって大学が裁判に巻き込まれたものである。ところで、歯科医のこのような医業は果たして患者側からも病院側からも容認されるものであろうか。患者は病院の医療を信頼・受診した。患者は病院で偶々(たまたま)担当日であった歯科医の診察を受けた。ということは、そもそも「患者は病院の患者であって診療所の患者ではなかった」のではないか、と弁護士には思えた。
《インプラント市場における病院と診療所の患者の自由競争(争奪)》
■インプラントは自由診療で保険診療ではないことは公知の事実である。歯科医の診療の主たる現場はもっぱら診療所である。患者はなぜ病院ではなく診療所でインプラントをしたのか、それは歯科医の「病院では月2・3回程度の診療しかできない。しかし、(私の)診療所では毎日診療できる」等の説明にあった。患者はインプラントにつき「万が一の場合、毎日診療してもらえる」との安心感から病院での治療より診療所での治療を選択したのである。
元来、患者は内科・外科・精神科・耳鼻咽喉科等の(総合)病院の歯科口腔外科を信頼・受診した。特定した歯科医の手技または診療所を信頼・受診したものではなかった。患者は、インプラント術後これらの事実を知り、病院を被告として提訴した。この事実からこの患者の真意は明白であった。歯科医が病院でインプラントをしていれば、術後の経過不良その他の偶発症に対しても先端医療設備や他の診療科やスタッフも整備している病院は、患者に対し迅速に対処できたはずである。しかし、病院は術後クレームにつき病院の患者でなくまた患者のインプラントに関する資料もなく、患者不安を迅速かつ適切に払拭することはできなかった。
■逆に、病院は感情的にはインプラントの自由診療収入の誘惑から歯科医が病院のインプラント患者を奪った、いわゆる“飼い犬に手を咬まれた”しかも“裁判に巻き込まれた”との感を強く持っていた。そのため大学は裁判終了後に規則違反で歯科医を処分する予定であった。しかし、病院と歯科医の関係そして大学側の事情がどうであれ、このような事情を知らない患者が、歯科医と病院がいわゆる“ぐる”となって医療過誤を“隠蔽”しているとの疑惑から、他の医療機関に足を向けるのは当然であった。
《過剰な医療情報に翻弄された患者の結末と医療機関の社会的責任》
■裁判には多数の証拠が提出され、裁判は長期化(約3年余)した。患者はインプラント術後に3箇所の歯科医院(診療所)、2箇所の病院、3箇所の大学附属病院で診察・診断・治療を受けた。そのため、カルテ、レントゲン、CT画像、検査報告書、診療情報提供書等を多数証拠として提出した。裁判官は証拠を詳細に検討した。その結果が「患者の敗訴判決」である。本件の患者は歯科医の治療に主観的(感情的)にも客観的(医学的)にも不安と疑問を持ち、次々とセカンドオピニオンを求め、まるで“渡り鳥”の如く診療所や病院を変更した。そのためインプラント術後に治療費・交通費で合計で約500万円と弁護士費用約300万円余の支払いを余儀なくされた。仮に、患者がいわゆる“クレーマー患者”でない限り、誠に不幸な結果と言わざるを得ない。
因に、患者の損害賠償請求額は、休業損害が3000万円、慰謝料が300万円、術後平成15年末迄の治療費が300万円、通院交通・宿泊費が200万円、弁護士費用が300万円で合計で4100万円であった。
■現在患者は多数の医療情報に接し、しかも、その情報は多義的でどこまで信頼できるかは不明である。この払拭のためセカンドオピニオンを求め、その納得が得られない場合、さらにこれを求め、最後は情報の中に埋没し、その真偽を裁判に求めざるを得なくなる。今後、このような患者が増加することは明らかである。これらの過剰な医療情報の中で、本件も歯科医の「病院での医療」と「診療所での医療」の関係が不透明の中で発生した不幸な事件である。
歯科医とこれを雇用している病院は共に医療機関である。医療供給者側は患者に医療の範囲と責任について明確な線引きをし、医療に対する“誰と誰との間の信頼関係の構築”か、これを事前に患者に告知しておく必要がある。この線引きは医療提供者側の社会的責任である。
(なお、本件は東京地裁平成16年(ワ)第18142号損害賠償請求事件の平成19年7月26日判決を参考に著者の体験事件をもとに加筆・訂正したものである。)
|
 |
 |
 |